ー子どもの頃の話から聞かせていただきます。ご出身はどちらですか?
川上:岩手県二戸市の座敷わらしで有名な所です。
ーご兄弟はいらっしゃるんですか?
川上:うちは、少し複雑なんです。両親は物心ついた時には離婚していて、父親は見たことがありません。母は仕事で忙しかったので、一緒に住んでた祖父母との思い出が多いですね。その後、母が再婚をして、小学生の時に歳の離れた妹が生まれました。
思春期でもありましたし、自分の中でも色んな葛藤があって、中学校あたりから順調に道を踏み外していったわけです(笑)
生後6か月、母と祖母と一緒に
7歳の頃、祖父母と二戸の男神岩で
ー高校は行かれたんですか?
川上:それがですね…名前が書ければ誰でも入れるはずの隣町の高校を受験したんですが、落ちてしまいました。その高校を落ちた生徒ほとんどいなかったそうです(苦笑)。まぁ、色んな噂が回ってたんでしょうね。
ーそれはある意味、貴重ですね。その後はどうされたんですか?
川上:働きながら地元の定時制の高校に行きましたが、すぐに辞めてしまいました。しばらくフラフラしていた時に、母親に「外国に行ってみないか?」と言われました。よく聞いてみると、知人にマグロ船に乗っている人がいたらしく、船員を探してるとのことでした。その頃は、未知の仕事だったので「外国!?行きたい!行く行く!明日からでも行く!」とふたつ返事で15歳でマグロ船に乗ることを決めました。
実際に乗船してみると睡眠時間はほとんどなく、ケガは当たり前で常に命の危険と隣り合わせ。何カ月も地上に降りることができないという過酷な環境でした。前述の知人の先輩に色んな意味で鍛えていただきました。返事、時間、規則に厳しく、何かにつけて怒鳴られ、ぶん殴られる。精神的に、本当に辛かったですね。「このまま海に飛び込んだ方が楽なんじゃないか…」という衝動に駆られる時もありました。
ーそれは辛かったでしょうね。でも、そこでみっちりと社会のルールや、厳しさを叩き込まれたわけですね。
川上:そうですね。後から聞いたんですが、その先輩は私の母親から「普通でいいから。なんとか普通の人にして返してちょうだい」と頼まれていたようです。なので、余計厳しく接してくれていたようです。でも、おかげで精神的にも肉体的にも鍛えられましたね
15歳 マグロ漁船に乗るため祖父母が見送り
ーマグロ船ではどこを航海するんですか?
川上:ブラジル、スペインなどを巡りました。陸に上がると数日間荷卸しの期間が休みになって、当時数十万の給料を現金でもらいます。もう、とにかく逃れたかったんでしょうね。衝動的に脱走しました(苦笑)。現地の同年代の子と言葉は通じなくても友達になってかくまってもらい、スペインのラスパルマスという街で遊び歩いてました。
実家では「どこに行ったんだ!死んだんじゃないか!?」と捜索願いが出され、外国に行っても心配を掛けてしまいました。散々逃げまわった挙句、見つかって日本大使館に連れて行かれ、強制送還で帰国しました。今、考えると本当に迷惑かけましたね。
ーさぞかしご家族は心配されたでしょうね…。当時16歳とのことですが、帰国後はどうしたんですか?
川上:また元の生活に戻ってしまいます。学がないので、条件の良い職にも就けません。今より景気は良かったので求人もたくさんあって、ポンポン採用が決まります。ところが3カ月周期で、経営者や先輩社員とケンカして辞める。これを何社も繰り返していました。
ー経営者側からするとたまったもんじゃないですが、どうしてそうなったのですか?
川上:学がないから他の人でも良かったのか使い捨てのように大切に扱われない。愛がないのが一番嫌でした。そして自分自身もスキルもないくせに我が強くて、白黒ハッキリつけたがる。グレーなんてない。理不尽なことが許せなくて、年齢や立場など関係なく向かっていくもんだから周りはいい迷惑だったと思います。
ーそんな中でも長く続いた仕事があるんですよね?
川上:はい。1つ目の会社は200名位いる総合建設業の会社でした。ある雨の日、重機で土場の土ならしを任されたんです。経験も少ないのに考える機会を与えて任せてくれました。それがおもしろかったんです。覚えたくて一人でライトをつけて、気づいたら日付が回っても一人で黙々と作業をしていました。残業代なんて出ないのに(笑)。そうしたら社長がやってきて「お前、まだやってだってが!?…そっか、ありがとうなぁ~」と帰っていきました。その後、周りの先輩社員からも話がいったんでしょうね、どんどん任されるようになって、はじめて仕事がおもしろいと感じることができました。今思うと、社長が良かったんです。嘘がなく愛があってみんなをかわいがってくれていました。口が悪くて短気だけど、みんなが社長を信頼していました。
ー初めて歯車があったってことですね!キーポイントはやはり経営者なんですね。
川上:今でも大好きな社長で連絡を取り合いますし、教えてくれたベテラン先輩社員の方も大好きで尊敬しています。それでも2年位で先輩社員とケンカして辞めてしまいます(苦笑)。でも、この職場で働いた経験から、愛を誰にでも惜しみなく注ぎ、社員や地域を第一に考える社長にいつかなりたいと思うようになりました。その次の会社が一番長く続きました。いまの会社でも活かされている屋根の板金屋です。
ーその会社はどうでしたか?
川上:全員で4名程度の小さな会社でした。当時70歳位の社長がいて“オヤジ”と呼んで慕っていました。仕事がおもしろくておもしろくて!初めてですね、給料がいらないと思ったのは。仕事が終わっても仕事道具や作業着を見に行って、「明日が早くこないかなぁ」って仕事が楽しみで、ワクワクしながら眠るんですよ。仕事のきれいさや速さをいかに見せてやろうか!と常に考えて、まさに天職だと感じました。
ー“仕事に行くのが楽しみ”なんてなかなかないですよね!どうしてそう思うようになったんでしょう?
川上:朝、オヤジと一緒にトラックで現場に向かうんですが、オヤジが僕にお金を渡してくれて、二人で自動販売機で缶コーヒーを買うんです。オヤジは必ず甘~いジョージアロング缶です(笑)車の中で現場に着くまでたくさん話しました。戦争直後の話、昔の職人の話、屋根屋の歴史など、色んなことを教えてくれました。
ー大変なこともあるけれども、歴史などを聞いていくうちに、おもしろさが見えてきたんですかね。だって、普通は「屋根板金」って聞いてもワクワクしないですもんね?仕事の成り立ちを教えてもらってその仕事の魅力に気づいたんでしょうね。
川上今思うと、僕のことをちゃんと理解して悪い所まで認めてくれてたんだと思います。怒られたことないんですよ。「川上なら大丈夫だ、できるから」って、できなくてもやらせてくれるんです。
ーちょっと上、ちょっと上って、うまく伸ばすんですね。
川上:そうなんです。僕は単純なので「オヤジがそう言うなら、できるのかな!?」ってがんばってやってみて…できちゃうんです(笑)。「いやぁ、川上がいないとダメだなぁ」なんて言ってくれて、それが嬉しくて、もっともっとやりたくなるんです。今だからわかるんけど、この状態って究極ですよね。自分の社員にはそういう風に感じさせられていないですから。オヤジは「人育て」なんて難しく考えていないはずなのに自然にできてたんです。当時の思いが今でも核となってて、いつか“オヤジ”みたいになりたいと思っています。その板金屋は長く務めたんですが、冬場に仕事が無くなることが続いて、やむを得ず辞めてしまいました

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